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■魔女の宗教と日本社会
 1.宗教と現代日本社会
 2.カルトについて
 3.カルト宗教としての魔女の宗教

 


3.カルト宗教としての魔女の宗教

先に、初期のキリスト教、イスラーム、仏教も最初は全てカルト宗教だったということを述べました。これはどの宗教も基本的には神秘宗教から始まるものだからです。そして、カルト宗教でない神秘宗教はないのですから、これは当然のことなのです。

魔女の宗教は神秘宗教なので、当然宗教学上の分類に従えばカルト宗教です。公教を持たないという時点でそうした分類になるのですからこれば自明です。公教を持たないと言うことは宗教としてはまだまだ未熟で幼稚な段階といえます。しかし、それがすなわち価値を下げていると言うことでもないのです。

「マノン・レスコー」の作者であり、フランスの修道士であるアベ プレヴォ(Abb´e Pr´evost 1697‐1763)は、

「宗教は大きな河に似ている。源泉から遠ざかるにつれて、絶え間なく汚染している」

と、述べていますが、これはつまるところ、公教として発展していくにつれ、本質的な純粋さが失われ、例えば世俗の権力に成り果てていくような宗教的堕落を示唆しています。たしかに公教が発展すれば、恣意的な解釈を加えて誤った方向に進もうとする人も出てくるでしょうし、分派、異端などの問題も往々にして起こってくることはある意味の必然です。川の源泉は美味しく飲める水なのに下流に行くにしたがって生活排水や工業廃液などが流れ込み飲んだら病気になるか、場合によっては死にいたってしまうという様子が彼には彼が信仰していたキリスト教の姿と重なったのかもしれません。これはどの宗教に対しても何とも言いえて妙な表現だと思います。

さて、魔女の宗教は神秘宗教ですが、色々なメディアでその思想などを公にしつつある現在、公教あるいはその要素を持ったものの社会的要請は避けられないことだと思います。「社会的要請など外部の話であり、門外漢の意見など関係ない」などという乱暴な意見もありますがそれは暴論です。なぜなら、魔女の宗教の実践者が一切口を閉ざしていれば、社会的要請は当然起こりえなかったわけですし、それを招いたのは魔女たち自身だからです。「本当に魔女になりたい人に知らせることが必要だから」という言い訳もよく聞きますが、ならば「魔女の道が必要な人は必ず自力でたどり着く」という言葉をそうだとすれば否定しなければなりません。どちらもその時々で正しいというのは所詮詭弁に過ぎません。

しかし、だからといって、一般の人の要請に応えるだけの、極端な例を言えば「魔女の公教」を立ち上げるということが現実的か、といえば残念ながらそうも行きません。それだけの確固たるものを魔女の宗教はもっていないからです。つまり、カルト宗教で手一杯なのです。魔女の名誉の為に一言言えば、今までそれで十分であり、必要がなかったわけですから、これは魔女たちが怠慢であったというわけではありません。ただ、今までと現状が変わってきてしまったというだけのことなのです。

私のところにもそうした問い合わせや意見はしばしば寄せられます。しかし、残念ながらそれらにお応えできません。残念ながら、まだまだそうした要請に応えるだけの人材も体制も教義の整理もなされていないからです。

ここからは完全に私見ですが、もし魔女の宗教が形はともかくとして一般的要請に応えるとしたら、まづは宗教的指導者を養成しなければ、単なる占いやおまじないごっこの集団になってしまうでしょう。あるいは宗教とはかけ離れたニューエイジ的な怪しい集団になってしまうと思います。そんなものが量産されるとしたら今のままのほうが桁違いに良いでしょう。

こうした問題をどのように考えていくか、そして、今と比較してという感じではありますが今よりも広く門戸を開いたときにどれだけ宗教的純粋さを保てるような更に足腰のしっかりした神秘宗教を確立できるか、が今後の課題なのだと思います。ただ、ここで誤解してはいけないことがあります。それは硬直した教義を作るということではないということです。公教というと教義が硬直化した(よい言い方をすればしっかりとした)ものをイメージしますが、それは公教の必要条件ではありません。現に日本の神道などのように硬直化した教義や聖典を持たずに神秘宗教と公教の両立を(上手くかどうかは別として)なしえている例もあるのですから。

これはつまるところ、アベ プレヴォの言葉を借りれば、どれだけの良質な水源を持つことができるか、ということに尽きるのかもしれません。

以上、日本の宗教事情と現在の魔女の宗教に関わる外的な問題点について簡単に考察してみました。魔女の宗教がカルト宗教のまま続くのか、あるいはカルト宗教とその周辺という形を模索していくのか、ある意味大きな岐路にたっている気がします。

(初出ブログ「社会と宗教」改題



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